2010年3月13日土曜日

悪魔

外から見るときと内側から見るときとで状況が異なり、見るものの存在を考えざるをえないという状況のある部分は、量子論と関係なく、知識の有無と記述、すなわち情報とだけに関係したより一般的な事態なのかもしれない。 複素ベクトル空間やユニタリ変換はこの点では量子論という不思議な理論とだけ関連したガジェットに過ぎないのかも。

戦前、ハンガリーはすぐれた物理学者を数多く輩出したが、その中でもレオ・シラードは興味をそそらずにいられない人物だ。 シラードは、ナチスを逃れて亡命した後、ロンドンで連鎖反応のアイデアを思いつき、ニューヨークでアインシュタインを介して大統領にナチスの原爆開発の脅威を訴えた書簡を送り、シカゴで世界初の原子炉をフェルミとともに完成させた。 物理学が政治へと飲み込まれていく時代の中心に身をおいて、奇妙な運命から、自ら考案した原爆をいかに使わずに済むかと闘い続けた。 しかしナチス登場直前の 1920 年代、若かりしころのシラードが研究をスタートさせたころのベルリンは、敗戦の混乱とハイパーインフレに襲われてはいたものの、それでも物理学の中心地としての面目はまだ保ち続けていたようだ。 シラードはこの場所で、ある奇妙なエンジンについて思いを巡らせていた。 そのエンジンは非実用的な思考実験ではあるが、多くの物理学者を現在に至るまで真剣に検討せざるをえなくさせるものだった。 単純極まりないそのエンジンは、驚くべきことに熱から無限のエネルギーを取り出すかに見えるからだ。

Szilard's engine
シラードのエンジン[1]

一定の温度 T の環境に置かれたこのエンジンの密閉されたシリンダはほとんど真空で分子 1 つだけが入れられている。 分子の速度は温度 T の周囲の分子の速度に従ったある分布の値をとる。 エンジンには小さな想像上の観測者がいる。 マクスウェルの悪魔の子分格なのでやはり「悪魔」とよばれるが、1 ビット程度のメモリしか必要としない。 はじめ悪魔のメモリは適当な定まった状態 s に置かれている。 エネルギーを生み出すサイクルは次のようである。 まずシリンダの中央に仕切りが入れられる。 このことによって仕切りで左右に分けられたシリンダどちらか一方にだけ分子 1 つがあることになる。 悪魔はシリンダの中を観察して、左か右どちらに分子があるかを記憶する。 例えば左なら L, 右なら R. つまり分子の位置と悪魔のメモリには相関ができ上がる。 左に分子を見出した悪魔は右半分にスライド可能なピストンを仕切りのところまで入れる。 右に分子があればその逆。 このピストンを入れる向きを区別するために悪魔の観測はどうしても必要になる。 その後、中央の仕切りを取り除く。 すると分子はピストンに衝突するたびにそれをちょっとだけ動かす。 跳ね返った分子はピストンを押して運動量を与えた分、速度が遅くなるが、容器の壁は温度 T のままなので、壁に衝突するうちにやがて元の元気を取り戻す。 つまり周囲の熱浴から熱 Q を受け取る。 そして再びピストンを押しにいく。 ピストンが容器の端までいって分子が動き回る体積が元の大きさにまでなったとき、この過程は終わる。 悪魔にとってピストンははっきり方向付けられた方向へと動き、それを使って仕事 W ができる。 つまり熱 Q が仕事 W に変わる。

分子が熱のエネルギーを回復する過程を繰り返せるだけ十分ゆっくりとピストンが動くなら、つまり物理学者がいうところの準静的に動くなら、定量的にはその大きさは QWkT loge2 となる。 k はボルツマン定数というある値で、日常の単位では 1.38×10−23 ジュール/ケルビンというとても小さな値。 しかしエンジンをアボガドロ数個 (6.0×1023 個) も調達しとけば、絶対温度 300 ケルビン(摂氏 27℃ ぐらい)の熱浴から 1 回の動作あたり 1.7 キロジュール(0.4 キロカロリー)のエネルギーを取り出せる。 これは 100 kg のものを時速 2 km まで加速する。 なじみの程よい値なのには何か意味があるのだろう。 こうしていわゆる第二種永久機関が完成する。 つまり、こんなものは完成してはいけない。 この世界ではそんなことが起きないということは熱力学の第二法則の名で表現されているものであり、考え違いがどこかに隠れているはずだ。 こうした永久機関を標榜するかのごときものが現れれば、科学者はそのどこが問題なのか探り当てずにはいられない。

よく見ると上のエンジンのサイクルは完結していないことがわかる。 1980 年代、それまでの定説を覆し、ここに問題を見出したのはベネットという IBM の研究者だった。 このエンジンは、場所や方向がよくわからなかった熱運動からわずかながらその情報を引き出し、左右方向の運動を引き出す。 引き出された情報は悪魔のメモリに残ったままだ。 アボガドロ数の悪魔は全部でアボガドロ数ビットの情報を溜め込んでいる。 気体の動きとからまりあって相関していたこの情報は、次のサイクルのためにリセットされなければならない。 左と右、L と R として 2 つに分裂していた可能性はただひとつの状態 s にまとめられなければならない。 非可逆な操作。 ランダウアーの仕事を参照して、このとき最低でも同じだけの仕事を熱に変えることが必要なのだとベネットはいう。 分子の運動の基礎にある法則は可逆、つまり時間に前後がない。 だから見かけ上非可逆な操作は違いを見えないところに捨てているに違いない。 見るものがいないところ、つまり周囲の熱になっているのだと。

これを逆に言うなら、アボガドロ数ビットの元々リセットされているメモリが地下鉱脈あたりで発見されたら、300 ケルビンから 1.7 キロジュールのエネルギーを生み出せるはずだ。 他のエネルギー資源もそういう理解はできないのだろうか。 分子が石油や天然ガスのように炭化水素であることは二酸化炭素と水であることよりも化学物質としてリセットされたメモリに近い物質で、それがもつ秩序を利用してぼくらはテレビをみたり、冷蔵庫を動かしたり、洗濯機を回す。 最終的にそれらはすべてちょうどそのワット数だけの割合で熱エネルギーとなって室内に放出される。 日常の言葉づかいでエネルギーを消費するというとき、利用可能な自由エネルギーを意味するけれど、それは状態がわかっている一種の記憶だということになるのかもしれない。

熱に関する平衡状態の気体の振る舞いを記述する変数をいじり回しているうちに有用性が明らかになったエントロピーという概念は、平衡状態の分子運動を統計的に扱うときに再定義され、確率論の上で構築された情報量として再々定義された。 その二番目、統計力学のエントロピー S は、分子の取りうる同一視されるパターンの数 W の対数に比例する量として定められる。 自ら命を絶ったボルツマンの墓碑銘、Sk logeW. しかし誰が何を同一視しているのだろう。 ここにも見るもののいない触れることのできないミクロと観察されアクセスされるマクロの問題がある。 マクロなものは熱力学でさんざん扱われてきたためにいかにも客観的に見える。 しかし悪魔は潜んでいないのだろうか。 それらが扱えるのは十分ほったらかしにしておいた熱平衡状態だけである。 背後の力学があらわになる小さな領域、短い時間では十分理解していたつもりのマクロな概念さえゆらぐ。 はたして悪魔からは、これらの学問はどんな風に見えているのだろう。

情報理論のエントロピーは、何か確率的にしかわからないある未知のものを知るために平均として必要となる量、確率分布がもつ不確定さのようなものを意味している。 コイン投げのように 2 つの選択肢が 0 か 1 かまったくわからず 50% ずつのときには 1 ビット。 イカサマコインであることを知っていればもっと小さい。 シラードの悪魔はシリンダを観察するとき 1 ビットの情報を得る。 かつてはこのときエントロピーが上昇するのだとの説があった。 悪魔の身になれば、ピストンの片側に分子があることを知ると、分子の取りうるパターン数 W は半減する。 系の内部のエントロピーは減少したかに見える。 観測によって悪魔にとってのエントロピーと外から見たエントロピーが齟齬をきたす。 エントロピーとは観測者に相対的な概念だ。 確率分布を所与の仮定として外からもってくる必要のある確率論にもとづいた情報理論では当たり前の話かもしれない。 散らしたぼくの机もぼくにとっては決してエントロピーは高くないのだから。

何よりも客観性に心を砕いてきた物理においても、系の中と外に観測するものの存在が紛れ込むかのようだ。 だがそう見えたものは、あまりに小さくて素朴な 1 ビットあるいは 1 キュービットの操作でしかない。 これらの観測者はなるほどそのような見方もできるかもしれないという程度のものだ。 新しいものが何かであると考えるような見方にこうした観測者は何かをもたらすのだろうか。 本当に世界を見るもの、係わるものとしての資格を持つのだろうか。 人や動物だけでなくあらゆるものが生々しい観測者だと考えてもいいのだとしたら、アニミズムかオカルティズムめいているだろうか。 逆に違いがあるとしたらそれは何なのだろう。

[1] Wikimedia Commons の画像 Szilard's_engine.svg (Htkym 作成) を改変。 licensed under CC-BY-SA 3.0 Unported.

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