2010年3月8日月曜日

インターフェース

Caps lock キー、キーボードの左小指のすぐ隣のよい位置にたたずむこのキーを、その名が示す本来の目的で使うことはほとんどないのはたぶんぼくだけじゃない。 そもそも手元のマシンでは「追加の ctrl キー」に設定されちゃってるし、それでさえもはや習慣からあまり指はいかない。 昔々、うちにあったオリヴェッティの英文タイプライターでもトグル式の固いキーがあった。 似たような位置で、大文字ロックではなくシフト・ロックだったと思う。 アームを力任せに打ち付ける手動式タイプライターでは、キータッチやストロークがどうこうなどと言ってられないぐらいにキーが重くて深く、シフトし続けながら連続した大文字を打つという作業は、小指の限界性能を引き出すに近い。 そういう意味ではこのキーもそれなりに役に立つキーだった。 だが今では、そんなものなくてもよかったのに一度決まってしまうと簡単には変えられないものの好例かもしれない。

そもそも、英文で手紙を書くわけでもないのになぜうちに英文タイプがあったのかはよくわからないが、 単に父親が仕事上キーボードの qwerty 配列に慣れるためだったのかもしれない。 パーソナル・コンピュータなるものが電器屋の店頭に並ぶしばらく前だったのだ。 よく考えればこの Q,W,E,R,T,Y といったキーの配列すべてがもはや変えられない取り決めでもある。 というより、コンピュータのすべての外界との接点にはこうした取り決めがなきゃならない。 文字を、画像を、音声を、あつかうべきあらゆるデータをさまざまな様式で符号化し、符号化は規格、何か共通の解釈手段の取り決めを必要とする。 規格は共通のものとして収斂しようとする傾向がある一方で、キー配列、文字集合、文字コード、コンテナ、コーデック、規格が規格を生み出し、概念を生み出し、現実の世界ではいささか過剰ぎみの放散もしめす。 生物の進化のプロセスと比べてみるのはそんなに変な考えじゃないだろう。 だけど進化とのアナロジーが実際どんな意味をもちうるだろうか。

新しく生まれるようなものをどうやって表したらよいかという問題だった。 だだっ広い高次元の空間を用意して、分裂していく新しい種の可能性を全部押し込め、適当な仮想的ダイナミクスの振る舞いを解析するという方法があった。 それと対になるようなものではないが、一方では事後的な進化の道筋は系統樹で表される。 遺伝的関係を追いかけるのならその過去から未来への木のような枝分かれの形、木構造が意味を持つ。 木構造。 近縁の種のハイブリッドが完全なこの木構造を壊すということはあるとしても、この図の分かれた枝が再び交わるということは基本的はまれだろう。 原核生物から真核生物への進化で起こったと思われるいくつかの細胞内小器官の共生のような、遺伝子が「水平」に移動するマーギュリス的事態はそうは起こらなかったのだろう。

しばらく前にみた科学雑誌のサイトのブログで、毛虫から蝶への華麗なる変態が、カギムシというなかなかうねうねしたキショかわいい生きた化石的生物との異種交配によって進化したのだという論文について書かれていた[1][2]。 そのニュースはその説そのものについての説明というより、そんな風変わりな説が権威ある学術誌に掲載されたというその雑誌の特殊な査読方法の問題についてむしろ取り上げたものだった。 ちなみに、そのいくらか裏口的な論文掲載に係わっていたのは共生説のリン・マーギュリスであったりする。 仮説そのものは、専門家からみれば誤りであることが明白な珍妙な説なのかもしれない。 だが、興味深かったのはその真偽によること以上の熱心さで、こうした仮説が学術誌に載ることが批判の的とされることだ。 「決まってしまうと簡単には変えられないもの」の強さを感じもする。 科学者の共同体で受け入れられるようなものという意味で「科学的」であること、辞書で定義されている風であるという意味で言葉の使い方が正しいこと、あるいはより明確に何らかの規格に沿っていることなどに特別な熱意をもってこだわる人があることと関係するのかもしれない。

こうしたハイブリッドの少なさは生物進化に固有の物かもしれない。 進化の系統樹に似たような系統図は時間的に継承、発展するものいろいろな対象に対して描かれるが、誠実に描けば多くはもはや木構造ではなく、より一般的な矢印のかたまり、グラフとなって、同時にその端点の節すら曖昧にぼやけて一定の省略や制限が必然となる。 言語の系統図を描こうとすれば、枝はクレオール言語の出現で合体するだろうし、語彙だけの借用はそれがどんなに大量でも省略されるだろう。 どこからどこまでひとつの言語なのかは多分に政治的に決めらるところがあるし、そう考えると節もどこまで節なのかどうかわからなくなる。 日本語の方言や朝鮮半島、さらにはその北、あるいは南の諸言語など、文法構造が似通った近隣の言語同士は点と点ではなく、太古にはむしろ乱流のように入り組みながらどこかでもっとなまめかしくうごめいていたのではないかと思える。 神話、伝説、昔話、おとぎ話のような口承による情報伝達で成り立ってきた文化は、さらに民族や言語の制限も軽々と飛び越える。 何らかの依存関係があったのかなかったのか、おどろくほどの遠距離に類似したモチーフをもつ話が見つかる。 石器時代まで遡るかもしれないこうした関係を適切に図示化することはほとんど不可能なことなのかもしれない。

符号化されたコンピュータ・ネットワークの世界では、こうしたぬえのような捉えにくさから記述されたグラフのほうへ世界自らすりよってくる。 ウェブページの参照関係、Twitter のフォローやリトゥイートの関係は、節も矢印も明確なグラフ構造として書けるだろう。 ある時点での静的なグラフのクラスタとか「小さな世界」とか全体的な統計的性質はすでにいろいろ研究されているはずだ。 時間に関する発展、新しいものがどう生まれるかという点ではどうなのだろう。

Caps lock キーを再び見つめてみる。 このキーが本来の大文字ロックのままであるキーボードを使うことが避けられなければ、ぼくにとってもこのキーには、それなりにささやかな存在意義がある。 間違って caps lock キーを押してしまったときにそれを取り消さねばならないからだ。 これは生命の存在意義にそっくりだ! つまりそんなものだれも注文していないのに、それが存在することそれ自体で自ら「意義」、必要性を生み出してしまっている、あるいは、もはや取り消せない存在意義となりうる。 何かが伝えられることそれ自体で、コンピュータとユーザの関係、インターフェースにある変化が生まれ、それ自体の居場所が生まれる。 コンピュータ側が存在することになった独自の世界。 ユーザであるぼくの方が外部の世界。 でもその間に成立する「意義」って何のことだろう。 グラフの矢印のどこにそれはあるのだろうか。

[1] E. Dolgin, “PNAS will publish controversial papers, journal says,” The Great Beyond, nature.com, 2009-10-19
[2] B. Borrell, “National Academy as National Enquirer?,” News, ScientificAmerican.com, 2009-08-24