1 ビットのメモリは 0 か 1 の状態しかとれない。 中間のないスイッチかシーソーのように瞬時にバタバタと値を切り替えるだけだ。 これは一番基本的で単純な状態。 ある時刻から別の時刻のメモリの状態を対応付ける関係を力学と呼んでおく。 時計仕掛けの決定論的な系というのはこれが定まるようなもの。 よそからの影響がなければある時刻の状態 x に関して別の時刻の状態 x' は、x'=f(x) のように関数で書けるだろう。 これは運動方程式を解くのに対応する。 これで 1 ビットの力学の完成。 ここには、それを見るもののいない、インターフェースのない世界。 だが状態の空間を適当に広げれば、百年後の惑星の運動を知るといったような問題でも同じ枠組みできっちり予言できる。
量子論の世界では系を見ることが状態を変えてしまうとされる。 1 ビットの量子版、1 キュービット (qubit) の状態の入れ物は 1 ビットよりぐんと大きい。 数学的おもちゃを使えば、2 次元の大きさ 1 の複素ベクトルとして書ける。 この分野では習慣的に縦ベクトルを |・〉 のような形で囲んで表すことになってる。 それぞれがビットの 0, 1 に対応する基底を |0〉= (1 0)T, |1〉= (0 1)T(本当は縦ベクトルのものを横に書いたので、T はそのしるし)として、1 キュービットの状態 |x〉とは、|x〉= α|0〉+β|1〉と書ける。 つまりは |x〉= (α β)T. ここで α, β が複素数。 ベクトルの大きさは 1, つまり αα* + ββ* = |α|2 + |β|2 = 1 のもの(* は複素共役、つまり虚数部だけ −1 掛けて反転したもの)という具合になる。 だけど複素数であることはいまは本質的でないので無視すれば、これは 2 次元平面の方角、風見鶏の向きのようなもの。 ただこの風見鶏に頭と尾の区別はない。 例えば東と西が状態 0 に対応して、北と南が 1 に対応する。 しかし 0 でも 1 でもない北東とか、北北東など無数に状態が増えている。
そこにはたらく力学は風見鶏のベクトルの方角をくるくるとかえるものになる。 風見鶏の方角を変える規則はやはり関数で書ける。 しかもこういう風に書いた状態では、時刻間の状態を対応づける関数はすごく制限があって、ベクトルの大きさを変えず、他のベクトルとの間の角度を変えないような変化しかできない。 再び数学的ジャーゴンで正確にいうと、ある時刻の状態 |x〉に関して別の状態 |x'〉は、何かのユニタリー行列という行列 U を掛けるだけの変化になる、|x'〉= U |x〉. 実数に限ればこれは直交行列で回転か鏡像反転かその組み合わせとなる。
状態と力学というこの理論のここまでは、決定論的な力学であることに変わりはないという意味で古典論のビットと同じ。 量子論でのおなじみの確率の話は入ってこない。 確率的な振る舞いはこの風見鶏の向きを見ようとしたときにだけ起こる。 観測するものなんかいなければこの話はこれで終わり。 奇妙なことに風見鶏の方角をぼくらは直接知ることができない。 知ることができるのは 0 か 1 の古典的なビットの状態だけ。 風見鶏が都合よくぴったり東か西を向いていたら、つまり |0〉か −|0〉(か複素数倍)だったら必ず観察結果は 0 になる。 南北なら必ず 1. 一般の |x〉= α|0〉+ β|1〉の場合に、はじめて確率的な振る舞いが現れ、あるときには 0 であるときには 1 となる。 その確率は、それぞれ |α|2= αα* と |β|2= ββ*. 例えば北東を向いていれば、0 となるか 1 となるかは半々の確率。 北北東なら 0 もあるけど 1 となる確率が高い。 しかも、さらに奇妙なことに観測すると風見鶏の方角そのものが、観察結果の状態に変わってしまう。 つまり観察結果と風見鶏はある種の相関をもってしまう。 観察前、北東を向いていたはずのものが観察で 1 という結果が得られたとすると、観察後は風見鶏は北向きに「収縮」することになる。 状態と力学に、この観測と収縮といういささか余計な不思議なものが加わって 1 キュービットの世界ができあがる。 不思議ではあるけど、単に簡単な線形代数の算数の世界に過ぎなくもある。
古典的 1 ビットの状態が 0 と 1 の 2 つだったので、それに対応して 1 キュービットの話はそれらを基底とした 2 次元での方角をしめす風見鶏となった。 2 ビットでは状態は 00, 01, 10, 11 の 4 つであり、2 キュービットの状態は 4 次元の大きさ 1 の複素ベクトルとなる。 つまりそれらに対応する状態を基底として、
のように書ける。 3 キュービットなら同様に 8 次元。 ついでに無数の連続した状態をもつ位置や運動量なら無限次元。 いろんな位置を波のようにうごめく関数として表される。量子は波でもあり粒でもあるといわれるが、ちゃんと住み分けがある。
2 ビットのメモリが 1 ビットのメモリ 2 つに分けられるのは当たり前のように思える。 なるほど 00, 01, 10, 11, どの場合であっても前のビットと後ろのビットの状態はきっちり分けられる。 もちろん 3 ビット以上でも同様。 だが 3 キュービットは 8 次元で表される。 1 キュービットは 2 次元なので、これだけで 1 キュービットを 3 つ張り合わせた 2+2+2 = 6 次元以上の状態をもっちゃっているのがわかる。 3 キュービットの状態は 1 キュービット 3 つの状態には分割できなくても当然なのだ。 2 キュービットでも話は同じで 1 キュービットずつに分割できないような状態がある。 こういう状態は、観測するとそれぞれのビットに何らかの相関があって、エンタングル状態、もつれあった状態とよばれる。 典型的には例えば、状態 |x〉 = 2−1/2|00〉 + 2−1/2|11〉は、最初のビットだけ観測したとしても、それが 0 なら 2 番目のビットも必ず 0 に収縮し、1 なら 2 番目のビットも必ず 1 に収縮する。 これがアインシュタインが顔をしかめたいわゆる EPR 相関。 1 ビット目が青酸の入ったビンの状態で、2 ビット目が猫の生死の状態を表すとすれば、これはあの不憫なシュレーディンガーの猫の話でもある。
機械仕掛けの力学の世界は見るもののいない、インターフェースのない世界だった。 量子論では奇妙な形で観測するものが関わっている。 それはひとつは系の外側から収縮をともなう観測をするものとして。 収縮は理論が扱うもののうちかどうかはっきりしない。 ちょうど系のインターフェースなのだ。 しかしインターフェースがどこにあるかよくわからない。 マクロとミクロという言葉を使って区別した人もいたし、人間の意識が収縮させるのだとした人もいた。 とりあえずこれでうまく計算できるのだから気にしないという人も。 でも客観を標榜してきた物理の理論において、見るものが現れざるをえない端的な例なのだから大いに気にしたくもある。
量子論の状態と力学は古典論と同じく決定論的で、他の理論と比べても何の問題もなかった。 力学はくるくるとねじれるだけの単純な運動で、とても美しい。 しかし量子論ではそこに何か系を見るものによる観測と収縮という余計な要素を付け加えねばならなかった。 この 2 つは、それまでの物理の理論の性質に比べるとどうにも気持ち悪い。 物理の基本法則の多くは決定論的だけでなく時間に関しても対称である。 過去と未来の区別はない。 なのに観測と収縮だけは確率論的で観測前と後で状態が急変する。 時間に関しても非対称だ。 いくらか付け焼刃にみえるし、どうみてもそれまでの美しさのかけらもない。 こんなものなかったら素晴らしかったのに。 系の境界を動かせば系の中に観測者を取り込めもする。 つまりシュレーディンガーの猫があわれな観測者だ。 2 キュービットの一方を観測されているものとして、もう一方を観測するものとしたとき、観測者は何を見るのだろうか。 見ることはどういう意味で定式化されるのだろうか。