2010年3月9日火曜日

道具

掃除機はかつてほうきとちりとりだった。 似ても似つかなくても、機能的にはそうだ。 洗濯機は洗濯板だった。 扇風機はうちわだった。 ではテレビとはかつて何だったのだろう。 ラジオだろうか、新聞だろうか、映画館か。 カメラ、ケータイ、コンピュータはどうだったか。 むしろこれらは何かの代替物として成立したんじゃない。 むしろその出現によってユーザとの間に新しい関係を作り出したものなのだ。 そんなものなくても世の中まあうまく回ってたのにそれらは現れた。 だが、今日の世の中は昨日とは変わってしまっている。 今ではもうこれらがないふりをすることはできないし、場合によってはどうしても必要なものである。 道具に対する必要は先にある必要がない。 「必要は発明の母」である必要はない。 むしろ「発明が必要の母」ともなる。 そのとき新しい関係を誕生させる何かが起こる。 何かとは何か。

あるチンパンジーの群れは手にもつ石と台となる石を使って木の実を叩き潰し中身にありつく。 木の実を車に踏み潰させるカラスもいるし、ラッコは石の上で貝を割るし、ある種のサギは水面に木の葉を落として魚をねらう。 動物を観察すればするほど道具を用いる動物がみつかる。 もはや何をして道具というかがわからなくもなってくる。 ビーバーのダムは道具なのだろうか。 ヤドカリの宿はどうだろう。 ヤドカリは本能に従うだけだというなら、ココナツの殻に身を包むタコの場合はどうだろう[1]。 ヤドカリとタコの間の区別にどこまでこだわれるだろうか。 動物の知能や行動の不思議にただ感心するのは簡単だし、逆に知性と本能の境界線によって分類できると考えるのもよくある手だ。 だが振り返ってみれば人の道具はこれらすべてに対してどうみても特殊である。 ヒトの世界は道具にあふれており、部屋の中では見回して道具でないものを見つけ出すことさえ難しい。 ボノボやチンパンジーが X 歳の子供の知能に相当するなどと動物学者にうそぶかれたところで、彼らとぼくらの世界には何かもっと本質的で決定的な違いがあると思える。 違いは頭の良さに還元できるような問題ではない。 密林のチンパンジーに突然フォン・ノイマンの知性が与えられても、明日コンピュータを発明することはない。 彼らとぼくらの違いはぼくらの周りにある多数の道具そのものにあるのだから。

痕跡が残っている限りで人類最初の道具、オルドワン石器は石の端を打ち欠いてとがらせただけのものである。 それでもここにはチンパンジーのそれとは重要な違いがある。 石器は別の石によって加工されなければならない。 道具のための道具、道具の二次使用。 いささか強引なところはあるけれど、ここには見かけ以上の差異があると見ることができる。 ホモ・ハビリスたちのオルドワン石器だけの時代は何十万年も続いたが、道具の二次使用に進めるならば三次、四次へと進むことに何の問題もないはずだからだ。 何かのための手段であった道具は、道具の道具にとって加工する対象、目的となる対象となる。 皮を剥ぐ、肉を切る、穂を摘む、動詞を担う道具は、剥ぐもの、切るもの、摘むものとして名詞となり他の動詞の目的語となりうる。 そうした変化が本当に本質的なら、それは長く続く鎖の最初の環となったかもしれない。

無限に連なることを許されたこの連鎖はとても重大な変化だ。 このときおそらく道具と、そして言葉や人間社会とは、可能性に開かれた独自の世界の中で、後世に継承すること、伝えることのできるものを手に入れた。 オルドワンはタンザニアのオルドヴァイ渓谷の名にちなむ。 クラークがモノリスを置いた土地。 モノリスからヒトが学んだのは行為を対象とすることへの気づきだったのだろう。 こうして道具の世界が作られ、人は現在の多数の道具に囲まれる暮らしへと導かれた。 道具同士は相互に依存したネットワークによって成立している。 ありふれた 1 本のネジを作るために、いくつのネジのついた道具がかかわっているのだろうと考えるなら、相互に依存しあった道具のネットワーク、長い歴史の中で選択と発展を繰り返しそれを支えてきた社会が今ここに存在することが、ヒトを他の動物とをここまでたがえているのだと思われてくる。 人において遺伝子はもはや伝達の重要な役割を担っていない。 人において伝えられるものは道具であり、言葉であり、それらを成り立たせている社会だ。

そうした道具の 1 つが失われれば影響は全体に及んでいくだろうが、それはどの程度のものだろう。 コンピュータ上のプロセスならライブラリの致命的な単一のバグが確実にプロセス全体をだめにする。 しかしネジひとつならそこまで波及することはないと思える。 単に 2 つのものを留めておくだけなら臨機応変になにか他のもので代用できるかもしれない。 ある人は言う、鉛筆がものを書くためのものだと誰が決めたというのだと。 鉛筆の発明者か、あるいは辞書の編纂者か。 しかし手の届かない背中の辺りがかゆくなったとき、都合よくまごのてなんかが手近になければ、我慢できずに迷わず長いものなら何でも手にするだろうと。 そのとき辞書の定義を気にかけることもなく、鉛筆とは背中を掻くための道具足りうると言うべきではないか。 ネジでないものがネジとなり、鉛筆が別のものともなりうる道具の世界とは何だろう。 あるものがあるものに役立つ道具だと言うのは誰なのだろう。

最古のオルドワン石器は 250 万年前には有用な道具であったのだろう。 博物館の中の現在でもそうなのだろうか。 道具の依存関係のネットワークをグラフ構造で示すことができたとしても、道具を表したものといえるのだろうか。 しかし、遺伝子の塩基配列が生物ではないように、エディタ・プログラムのリストが文章の編集をしないように、あるいは読まれない本が何の物語も語らないように、解釈するもののいないコードは意味を持ち得ない。 名詞が再び動詞となり、ユーザが道具を使うこと、ユーザとの間の関係が道具を道具たらしめる。 ならば道具であることは曖昧な問題となる。 山は道具である、エヴェレストを征服しようとする登山家にとって。 花も道具である、恋人に送られる花束の中で。 星々はまたただの道具でしかない、星を見上げて物思いにふけるなら。 それどころか、ぼくらに現れてくるものすべてが、ぼくらにとっては道具であり、世界と思っているものは解釈されたもの、ぼくらにとって道具でしかありえないものの集まりとなる。

だがはたしてそんなことを言ってもいいものだろうか。 ぼくらは世界にぼくらにとっての解釈以上の存在もまた感じていないだろうか。 登山家が「山がそこにあるから登るのだ」とうそぶくなら、山はそんな勝手な思いなど知ったことかと「ここにいるからいるのだ」とでも言うだろう。 生物学者は、受粉の仕組みを説明し花の美しさは人のためではなくむしろ昆虫たちのためにあるのだと諭すだろう。 何千兆 km 彼方の星々はぼくらの存在など鼻にもかけていないことは明らかだ。 人の思いだけがその存在などといっていいのだろうか。 ただそれはそこにあるという思いさえ一種の道具として見ていることなのだろうか。 鉛筆もテレビもただそこにあるものと思えないのだろうか。 少なくともぼくの犬がそう思っていたことは確かだ。 ただそこにあるということと道具の役割が決まっていないということとはどう関係するのだろうか。

人を動物からたがえ発展してきた道具において、あるいはおそらく言語においても、2 つの世界の狭間において成立するものらしい。 対象の独自の世界があり、解釈し利用するものの独自の世界がある。 その関係は微妙で写像のようにきっちりと対応付けはできない。 道具は臨機応変に複数の用途をひらくし、利用者の意図は様々なものを別の道具とみなすと同時にその向こうの何ものでもない存在も感じている。 その間を往復して、ときに恣意的に選択されたものが固定したり、求めていなかったものが新たな広い可能性の世界へと導く。 ものだけの世界ならば力学系でもグラフでも何か適当な道具立てで調べられるだろう。 だがそこにはそれを見て、それを使うものがいない。 それがなければ適切な理解は得られそうにないのに。

[1] B. Keim, 「軟体動物のハイレベルな知性」 Wired Vision, 2009-12-16