2010年3月11日木曜日

独我論

2 キュービットの系の状態 |x〉は、2 ビットの 4 つの古典的状態 00, 01, 10, 11 に対応する 4 つの基底ベクトル |00〉 = (1 0 0 0)T, |01〉 = (0 1 0 0)T, |10〉 = (0 0 1 0)T, |11〉 = (0 0 0 1)T を使って、

|x〉 = α|00〉 + β|01〉 + γ|10〉 + δ|11〉 (|α|2 + |β|2 + |γ|2 + |δ|2 = 1)

と表される。 要するに 4 次元のベクトル (α β γ δ)T. この α, β, γ, δ は複素数なのだけど、実数でイメージをふくらませるなら、4 次元における方向のようなもの。 ただ +|x〉と −|x〉とは実質同じ状態なので、その半分、4 次元人の見上げる空。

こうすると 2 キュービットの力学、時間に関する状態の移り変わりは 4×4 のユニタリ行列 U になる。 ユニタリは随伴行列(共役の転置行列)が逆行列に等しい U* = U−1, U*UUU* = I といってもよくわからないけど、2 つのベクトル (α β γ δ)T と (αβγδ')T の内積 αα'* + ββ'* + γγ'* + δδ'* を保つもの、といってもやっぱりよくわからないけど、実数なら直交行列、3 次元でざっくり言えば 2 軸でまわせる地球儀をあちこちまわしてみるような、角度や大きさを変えずに向きだけ変えるような変換。 あと鏡に映して裏返すのもあり。

この 2 キュービットの各々が見るものと見られるものだとしてみよう。 前のキュービットを観測される側 A だとし、後ろを観測する側 B とする。 問題はどんな状態遷移、どんな U が観測なのかということだ。 何をしたら観測とよべるだろう。 何かを知ることだから A の状態の何かを B にコピーしたい。 でも実は A の状態を完全に B にコピーはできない。 地球儀をぐるぐる回しただけで日本列島が 2 つに増えたりしない。 ユニタリ行列ごときではそんな変換は許されようがないのだ。 クローニング不能定理。

では、A が古典的状態 0 と 1 にあるときだけうまくコピーできればよしとしてみよう。 観察者 B の初期値を決めないと U は決められないので B の方は古典的状態 0 としよう。 つまりこのとき、|00〉ならそのまま U |00〉= |00〉で、|10〉なら U |10〉= |11〉になるって条件だけでいい。 これは何のことはない。 U を例えば、

controlled-NOT

なる行列とすればいい。 これは見ての通り 3 番目と 4 番目の要素を入れ替えるだけの操作、言い換えるなら 3 番目の軸と 4 番目の軸の間に鏡を立てたような操作。 なるほどユニタリ行列になっている。

ちなみにこの U の場合、B が元々 1 だとすると、U |01〉= |01〉, U |11〉= |10〉で、A の反対になるようになっている。 実はこの行列は量子計算で制御 NOT と呼ばれている。 そこでは古典的な NAND ゲートに相当するような重要な操作。 A の側から見れば、A が 0 のとき B は状態を変えず、A が 1 のとき B はブール代数の NOT になる。 つまり、制御線 A をもつような NOT であることから制御 NOT と名付けられた。 どうも今ひとつ好きになれない名前だけど。 ここでは見られるもの A が制御するもので、見るもの B が制御されるものとなる。

この系で観測者の B は何を見るのだろう。 シュレーディンガーの猫の話では A が箱の中のアイソトープの崩壊の状態、B が箱に入れられた猫だった。 B が青酸ガスで死んじゃうのはかわいそうなので、ここではただ A を観察するだけの観察者とする。 初め、A が 0 とも 1 とも限らない一般の状態 (α β)T にあるとしよう。 B は 0 が初期状態だから、このとき 4 次元のベクトルは α|00〉+ β|10〉 = (α 0 β 0)T, すると上の制御 NOT を施せば (α 0 0 β)T つまりは α|00〉+ β|11〉, エンタングルド状態。 当たり前のようで不思議なことに、通りかかった「ウィグナーの友人」C さんが蓋を開けて B に話を聞けば、0 である B は 0 である A しか見ておらず、1 である B は 1 である A しか見ていない。 蓋を開けて話を聞いた C さんにも大きな箱の系に入っていたとしよう。 このとき 3 キュービットで、α|000〉+ β|111〉. 当たり前のようで不思議なようで当たり前のことに 0 である C さんは 0 である B しか、1 である C さんは 1 である B しか知らない。

観測するということは、外から見るとこんな風にエンタングルメント、もつれあった相関を持つことらしい。 もし箱を宇宙全体に拡大してよければ、不可思議な収縮過程は必要なくなる。 宇宙とは無限次元の風見鶏の単位長さの状態ベクトル 1 つであり、すべてはどうエンタングルしてるかの重ね合わせとなる。 誰も矛盾は感じない。 大学院生エヴェレットはそう考えた。 とすると宇宙の状態ベクトルは、いろいろなエンタングルをしている観測者の重ね合わせからなっている。 そこには猫が死んだ世界とエンタングルした自分、生きている世界とエンタングルした自分がいる。 なるほど数式は単純になり、時計仕掛けの決定論の美しい神の秩序がふたたび復活する。

しかしでは、と、ふたたび疑問が持ち上がる。 独我論的疑問。 しかしでは、この私はなぜこの《私》なのか。 「この私がなぜこの私なのか」と思う重ねあわせにある多数のあなたがいるだけだよとエヴェレット派のハイパー実在論者は言うだろう。 でも、「この私がなぜこの私なのか」と思う重ねあわせにある多数のぼくの中でこの私はなぜこの《私》なのか。 問いは治まることはない。 意味のない問いだとしたら、なぜ問えると思うのか。 ここでしめされた世界の神はすべての可能性を知っているが故に何も知らないに等しい。 その世界にこの《私》がいるからこそ、この世界に新しいものを見たり、インターフェースのこちら側にいて関わりあったりするのではないか。 それは一体どういう事態なのか。 多数の私の内でこの《私》が客観的にピックアップできる存在でないとしたら、ぼくをいまここに捕えているものは何なのか。 私を《私》ということは、イヌをネコと呼んでみているだけなのだろうか。

2010年3月10日水曜日

即席量子論

1 ビットのメモリは 0 か 1 の状態しかとれない。 中間のないスイッチかシーソーのように瞬時にバタバタと値を切り替えるだけだ。 これは一番基本的で単純な状態。 ある時刻から別の時刻のメモリの状態を対応付ける関係を力学と呼んでおく。 時計仕掛けの決定論的な系というのはこれが定まるようなもの。 よそからの影響がなければある時刻の状態 x に関して別の時刻の状態 x' は、x'=f(x) のように関数で書けるだろう。 これは運動方程式を解くのに対応する。 これで 1 ビットの力学の完成。 ここには、それを見るもののいない、インターフェースのない世界。 だが状態の空間を適当に広げれば、百年後の惑星の運動を知るといったような問題でも同じ枠組みできっちり予言できる。

量子論の世界では系を見ることが状態を変えてしまうとされる。 1 ビットの量子版、1 キュービット (qubit) の状態の入れ物は 1 ビットよりぐんと大きい。 数学的おもちゃを使えば、2 次元の大きさ 1 の複素ベクトルとして書ける。 この分野では習慣的に縦ベクトルを |・〉 のような形で囲んで表すことになってる。 それぞれがビットの 0, 1 に対応する基底を |0〉= (1 0)T, |1〉= (0 1)T(本当は縦ベクトルのものを横に書いたので、T はそのしるし)として、1 キュービットの状態 |x〉とは、|x〉= α|0〉+β|1〉と書ける。 つまりは |x〉= (α β)T. ここで αβ が複素数。 ベクトルの大きさは 1, つまり αα*ββ* = |α|2 + |β|2 = 1 のもの(* は複素共役、つまり虚数部だけ −1 掛けて反転したもの)という具合になる。 だけど複素数であることはいまは本質的でないので無視すれば、これは 2 次元平面の方角、風見鶏の向きのようなもの。 ただこの風見鶏に頭と尾の区別はない。 例えば東と西が状態 0 に対応して、北と南が 1 に対応する。 しかし 0 でも 1 でもない北東とか、北北東など無数に状態が増えている。

そこにはたらく力学は風見鶏のベクトルの方角をくるくるとかえるものになる。 風見鶏の方角を変える規則はやはり関数で書ける。 しかもこういう風に書いた状態では、時刻間の状態を対応づける関数はすごく制限があって、ベクトルの大きさを変えず、他のベクトルとの間の角度を変えないような変化しかできない。 再び数学的ジャーゴンで正確にいうと、ある時刻の状態 |x〉に関して別の状態 |x'〉は、何かのユニタリー行列という行列 U を掛けるだけの変化になる、|x'〉= U |x〉. 実数に限ればこれは直交行列で回転か鏡像反転かその組み合わせとなる。

状態と力学というこの理論のここまでは、決定論的な力学であることに変わりはないという意味で古典論のビットと同じ。 量子論でのおなじみの確率の話は入ってこない。 確率的な振る舞いはこの風見鶏の向きを見ようとしたときにだけ起こる。 観測するものなんかいなければこの話はこれで終わり。 奇妙なことに風見鶏の方角をぼくらは直接知ることができない。 知ることができるのは 0 か 1 の古典的なビットの状態だけ。 風見鶏が都合よくぴったり東か西を向いていたら、つまり |0〉か −|0〉(か複素数倍)だったら必ず観察結果は 0 になる。 南北なら必ず 1. 一般の |x〉= α|0〉+ β|1〉の場合に、はじめて確率的な振る舞いが現れ、あるときには 0 であるときには 1 となる。 その確率は、それぞれ |α|2αα* と |β|2ββ*. 例えば北東を向いていれば、0 となるか 1 となるかは半々の確率。 北北東なら 0 もあるけど 1 となる確率が高い。 しかも、さらに奇妙なことに観測すると風見鶏の方角そのものが、観察結果の状態に変わってしまう。 つまり観察結果と風見鶏はある種の相関をもってしまう。 観察前、北東を向いていたはずのものが観察で 1 という結果が得られたとすると、観察後は風見鶏は北向きに「収縮」することになる。 状態と力学に、この観測と収縮といういささか余計な不思議なものが加わって 1 キュービットの世界ができあがる。 不思議ではあるけど、単に簡単な線形代数の算数の世界に過ぎなくもある。

古典的 1 ビットの状態が 0 と 1 の 2 つだったので、それに対応して 1 キュービットの話はそれらを基底とした 2 次元での方角をしめす風見鶏となった。 2 ビットでは状態は 00, 01, 10, 11 の 4 つであり、2 キュービットの状態は 4 次元の大きさ 1 の複素ベクトルとなる。 つまりそれらに対応する状態を基底として、

|x〉 = α|00〉 + β|01〉 + γ|10〉 + δ|11〉 (αα*ββ*γγ*δδ* = 1)

のように書ける。 3 キュービットなら同様に 8 次元。 ついでに無数の連続した状態をもつ位置や運動量なら無限次元。 いろんな位置を波のようにうごめく関数として表される。量子は波でもあり粒でもあるといわれるが、ちゃんと住み分けがある。

2 ビットのメモリが 1 ビットのメモリ 2 つに分けられるのは当たり前のように思える。 なるほど 00, 01, 10, 11, どの場合であっても前のビットと後ろのビットの状態はきっちり分けられる。 もちろん 3 ビット以上でも同様。 だが 3 キュービットは 8 次元で表される。 1 キュービットは 2 次元なので、これだけで 1 キュービットを 3 つ張り合わせた 2+2+2 = 6 次元以上の状態をもっちゃっているのがわかる。 3 キュービットの状態は 1 キュービット 3 つの状態には分割できなくても当然なのだ。 2 キュービットでも話は同じで 1 キュービットずつに分割できないような状態がある。 こういう状態は、観測するとそれぞれのビットに何らかの相関があって、エンタングル状態、もつれあった状態とよばれる。 典型的には例えば、状態 |x〉 = 2−1/2|00〉 + 2−1/2|11〉は、最初のビットだけ観測したとしても、それが 0 なら 2 番目のビットも必ず 0 に収縮し、1 なら 2 番目のビットも必ず 1 に収縮する。 これがアインシュタインが顔をしかめたいわゆる EPR 相関。 1 ビット目が青酸の入ったビンの状態で、2 ビット目が猫の生死の状態を表すとすれば、これはあの不憫なシュレーディンガーの猫の話でもある。

機械仕掛けの力学の世界は見るもののいない、インターフェースのない世界だった。 量子論では奇妙な形で観測するものが関わっている。 それはひとつは系の外側から収縮をともなう観測をするものとして。 収縮は理論が扱うもののうちかどうかはっきりしない。 ちょうど系のインターフェースなのだ。 しかしインターフェースがどこにあるかよくわからない。 マクロとミクロという言葉を使って区別した人もいたし、人間の意識が収縮させるのだとした人もいた。 とりあえずこれでうまく計算できるのだから気にしないという人も。 でも客観を標榜してきた物理の理論において、見るものが現れざるをえない端的な例なのだから大いに気にしたくもある。

量子論の状態と力学は古典論と同じく決定論的で、他の理論と比べても何の問題もなかった。 力学はくるくるとねじれるだけの単純な運動で、とても美しい。 しかし量子論ではそこに何か系を見るものによる観測と収縮という余計な要素を付け加えねばならなかった。 この 2 つは、それまでの物理の理論の性質に比べるとどうにも気持ち悪い。 物理の基本法則の多くは決定論的だけでなく時間に関しても対称である。 過去と未来の区別はない。 なのに観測と収縮だけは確率論的で観測前と後で状態が急変する。 時間に関しても非対称だ。 いくらか付け焼刃にみえるし、どうみてもそれまでの美しさのかけらもない。 こんなものなかったら素晴らしかったのに。 系の境界を動かせば系の中に観測者を取り込めもする。 つまりシュレーディンガーの猫があわれな観測者だ。 2 キュービットの一方を観測されているものとして、もう一方を観測するものとしたとき、観測者は何を見るのだろうか。 見ることはどういう意味で定式化されるのだろうか。

2010年3月9日火曜日

道具

掃除機はかつてほうきとちりとりだった。 似ても似つかなくても、機能的にはそうだ。 洗濯機は洗濯板だった。 扇風機はうちわだった。 ではテレビとはかつて何だったのだろう。 ラジオだろうか、新聞だろうか、映画館か。 カメラ、ケータイ、コンピュータはどうだったか。 むしろこれらは何かの代替物として成立したんじゃない。 むしろその出現によってユーザとの間に新しい関係を作り出したものなのだ。 そんなものなくても世の中まあうまく回ってたのにそれらは現れた。 だが、今日の世の中は昨日とは変わってしまっている。 今ではもうこれらがないふりをすることはできないし、場合によってはどうしても必要なものである。 道具に対する必要は先にある必要がない。 「必要は発明の母」である必要はない。 むしろ「発明が必要の母」ともなる。 そのとき新しい関係を誕生させる何かが起こる。 何かとは何か。

あるチンパンジーの群れは手にもつ石と台となる石を使って木の実を叩き潰し中身にありつく。 木の実を車に踏み潰させるカラスもいるし、ラッコは石の上で貝を割るし、ある種のサギは水面に木の葉を落として魚をねらう。 動物を観察すればするほど道具を用いる動物がみつかる。 もはや何をして道具というかがわからなくもなってくる。 ビーバーのダムは道具なのだろうか。 ヤドカリの宿はどうだろう。 ヤドカリは本能に従うだけだというなら、ココナツの殻に身を包むタコの場合はどうだろう[1]。 ヤドカリとタコの間の区別にどこまでこだわれるだろうか。 動物の知能や行動の不思議にただ感心するのは簡単だし、逆に知性と本能の境界線によって分類できると考えるのもよくある手だ。 だが振り返ってみれば人の道具はこれらすべてに対してどうみても特殊である。 ヒトの世界は道具にあふれており、部屋の中では見回して道具でないものを見つけ出すことさえ難しい。 ボノボやチンパンジーが X 歳の子供の知能に相当するなどと動物学者にうそぶかれたところで、彼らとぼくらの世界には何かもっと本質的で決定的な違いがあると思える。 違いは頭の良さに還元できるような問題ではない。 密林のチンパンジーに突然フォン・ノイマンの知性が与えられても、明日コンピュータを発明することはない。 彼らとぼくらの違いはぼくらの周りにある多数の道具そのものにあるのだから。

痕跡が残っている限りで人類最初の道具、オルドワン石器は石の端を打ち欠いてとがらせただけのものである。 それでもここにはチンパンジーのそれとは重要な違いがある。 石器は別の石によって加工されなければならない。 道具のための道具、道具の二次使用。 いささか強引なところはあるけれど、ここには見かけ以上の差異があると見ることができる。 ホモ・ハビリスたちのオルドワン石器だけの時代は何十万年も続いたが、道具の二次使用に進めるならば三次、四次へと進むことに何の問題もないはずだからだ。 何かのための手段であった道具は、道具の道具にとって加工する対象、目的となる対象となる。 皮を剥ぐ、肉を切る、穂を摘む、動詞を担う道具は、剥ぐもの、切るもの、摘むものとして名詞となり他の動詞の目的語となりうる。 そうした変化が本当に本質的なら、それは長く続く鎖の最初の環となったかもしれない。

無限に連なることを許されたこの連鎖はとても重大な変化だ。 このときおそらく道具と、そして言葉や人間社会とは、可能性に開かれた独自の世界の中で、後世に継承すること、伝えることのできるものを手に入れた。 オルドワンはタンザニアのオルドヴァイ渓谷の名にちなむ。 クラークがモノリスを置いた土地。 モノリスからヒトが学んだのは行為を対象とすることへの気づきだったのだろう。 こうして道具の世界が作られ、人は現在の多数の道具に囲まれる暮らしへと導かれた。 道具同士は相互に依存したネットワークによって成立している。 ありふれた 1 本のネジを作るために、いくつのネジのついた道具がかかわっているのだろうと考えるなら、相互に依存しあった道具のネットワーク、長い歴史の中で選択と発展を繰り返しそれを支えてきた社会が今ここに存在することが、ヒトを他の動物とをここまでたがえているのだと思われてくる。 人において遺伝子はもはや伝達の重要な役割を担っていない。 人において伝えられるものは道具であり、言葉であり、それらを成り立たせている社会だ。

そうした道具の 1 つが失われれば影響は全体に及んでいくだろうが、それはどの程度のものだろう。 コンピュータ上のプロセスならライブラリの致命的な単一のバグが確実にプロセス全体をだめにする。 しかしネジひとつならそこまで波及することはないと思える。 単に 2 つのものを留めておくだけなら臨機応変になにか他のもので代用できるかもしれない。 ある人は言う、鉛筆がものを書くためのものだと誰が決めたというのだと。 鉛筆の発明者か、あるいは辞書の編纂者か。 しかし手の届かない背中の辺りがかゆくなったとき、都合よくまごのてなんかが手近になければ、我慢できずに迷わず長いものなら何でも手にするだろうと。 そのとき辞書の定義を気にかけることもなく、鉛筆とは背中を掻くための道具足りうると言うべきではないか。 ネジでないものがネジとなり、鉛筆が別のものともなりうる道具の世界とは何だろう。 あるものがあるものに役立つ道具だと言うのは誰なのだろう。

最古のオルドワン石器は 250 万年前には有用な道具であったのだろう。 博物館の中の現在でもそうなのだろうか。 道具の依存関係のネットワークをグラフ構造で示すことができたとしても、道具を表したものといえるのだろうか。 しかし、遺伝子の塩基配列が生物ではないように、エディタ・プログラムのリストが文章の編集をしないように、あるいは読まれない本が何の物語も語らないように、解釈するもののいないコードは意味を持ち得ない。 名詞が再び動詞となり、ユーザが道具を使うこと、ユーザとの間の関係が道具を道具たらしめる。 ならば道具であることは曖昧な問題となる。 山は道具である、エヴェレストを征服しようとする登山家にとって。 花も道具である、恋人に送られる花束の中で。 星々はまたただの道具でしかない、星を見上げて物思いにふけるなら。 それどころか、ぼくらに現れてくるものすべてが、ぼくらにとっては道具であり、世界と思っているものは解釈されたもの、ぼくらにとって道具でしかありえないものの集まりとなる。

だがはたしてそんなことを言ってもいいものだろうか。 ぼくらは世界にぼくらにとっての解釈以上の存在もまた感じていないだろうか。 登山家が「山がそこにあるから登るのだ」とうそぶくなら、山はそんな勝手な思いなど知ったことかと「ここにいるからいるのだ」とでも言うだろう。 生物学者は、受粉の仕組みを説明し花の美しさは人のためではなくむしろ昆虫たちのためにあるのだと諭すだろう。 何千兆 km 彼方の星々はぼくらの存在など鼻にもかけていないことは明らかだ。 人の思いだけがその存在などといっていいのだろうか。 ただそれはそこにあるという思いさえ一種の道具として見ていることなのだろうか。 鉛筆もテレビもただそこにあるものと思えないのだろうか。 少なくともぼくの犬がそう思っていたことは確かだ。 ただそこにあるということと道具の役割が決まっていないということとはどう関係するのだろうか。

人を動物からたがえ発展してきた道具において、あるいはおそらく言語においても、2 つの世界の狭間において成立するものらしい。 対象の独自の世界があり、解釈し利用するものの独自の世界がある。 その関係は微妙で写像のようにきっちりと対応付けはできない。 道具は臨機応変に複数の用途をひらくし、利用者の意図は様々なものを別の道具とみなすと同時にその向こうの何ものでもない存在も感じている。 その間を往復して、ときに恣意的に選択されたものが固定したり、求めていなかったものが新たな広い可能性の世界へと導く。 ものだけの世界ならば力学系でもグラフでも何か適当な道具立てで調べられるだろう。 だがそこにはそれを見て、それを使うものがいない。 それがなければ適切な理解は得られそうにないのに。

[1] B. Keim, 「軟体動物のハイレベルな知性」 Wired Vision, 2009-12-16