2010年3月6日土曜日

新しいもの

何かについて伝えるという行いは、その何かそのものを伝えるように見えて、まず独自の世界が作り出されて、その決まりの中で繰り広げるようなものじゃなくちゃいけない。 要するに言葉の規則や言葉の世界のようなもの。 決まりはコンピュータ・シミュレーションのように模倣された世界を作り出すけど、もっと生々しい生き物のようなもの。

散歩中の通りがかりのイヌに向かってこっそり「ネコ」とつぶやいてみる。 そして、そのつぶやきがどんな意味をもつのか考えてみる。 言葉の決まりから自由になろうとあがいてみても、ぼくのそのつぶやきは、イヌであるべきものをネコと呼んでみたという、その決まりにあらがったというぐらいの意味しか持ちようがない。 しかし、犬はイヌである必要はなかったはずだと思える。 そう呼ばれる必要はなかったはずだ。 実際ドッグ (dog) と、あるいはフント (Hund) と、シエン (chien) と、ペロ (perro) と、サバーカ (собака) と呼ぶ人もいる。 言葉の表現と意味との対応の恣意性。 しかし一旦決められたこの決まりからはどんなにあがいても逃れるのは難しい。 私的言語の不在。

恣意性の重要さを最初に説いたのは、大乗仏教の創始者たちでないとすれば、フェルディナン・ドゥ・ソシュールだ。 だが、安易に恣意性を持ち込むことは、根拠を問う科学的な志向を終わらせてしまうかもしれない。 「偶然だ」終わり。 「虹の色は何色にどう分割されてもよかった」とは、また恣意的な差異だけが意味を持つということを語るときの言語学者お気に入りの実例。 ニュートンの権威は虹が 7 色だという考えを根付かせた。 この世界随一の大科学者は、なにやらわからぬ神秘主義的根拠から『光学』の中でレ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド・レ、音階のそれぞれの間隔に色を割り当てようとし、半音のためにわざわざあいまいな「インディゴ」と「オレンジ」を用意した。 日本でもヨーロッパでもかつては 5 色ぐらいにわけていたようだ。 ミシェル・パストゥローは『青の歴史』の中で古代ギリシャと古代ローマで著述家たちが虹を何色に分けたかを列挙し、そこに青がなかったことを指摘する。 青は嫌われ者だったらしい。

古代、日本語の青には緑色も含まれたことはよく知られている。 そのどちらもが「アヲ」であった。 それだけでなく、紫も灰色も、ときには黒も、とにかく生気のない色すべてはアヲであった。 アヲバ、アヲゲ、アヲガヘル。 これは「やまと言葉」の特殊事情ではない。 漢字の「青」は青色、緑色どちらも表しうる。 ホメロスにとってはアルキノオス王の宮殿の鮮やかな青いフリースも、アガメムノンの盾の恐ろしげな装飾を施した鋼も、大挙して押し寄せるトロイの軍船の影もすべてキュアノス (κυανός) であった。 空カエルム (caelum) が(誤って?)語源だとされることもあるラテン語のカエルレウス (caeruleus) も緑や黒などさまざまな色を表した。 東アジア、東南アジア、インド、アフリカ、インディオ、多くの人々の多くの言語でも同じであった。 対してそうでない言語もある。 例えばロシア語では暗い青スィーニイ (синий) と明るい青ガルボーイ (голубой) さえきっちりと区別するらしい。

色の分類は結局は文化ごとにソシュール的な差異の体系が発展する恣意的なものなのか。 だが、ケイらは、膨大なフィールドワークから、白黒、そして赤から順次色の差異が分裂していく一定の物語があるのだと主張した[1]。 リンゼイらはむしろ紫外線によって水晶体が濁るために、暖かい地方では実際に緑と青の区別が困難になるのだとの説明を持ち出した[2]。 こうした説が正しいかは別として、恣意性を安易に受け入れていたらこうした議論へ至る道を見つけ出せなかったろう。

恣意性は、時計仕掛けの世界の見方、決定論的な世界の見方を揺るがせる。 前の状態から直後の状態が一意に決まるとする規則と最初の瞬間の状態、初期状態とからなるおなじみの世界の記述の仕方。 コンピュータ・シミュレーションのように 1 ステップずつなんの揺らぎもなく更新されていく形式的で計算可能で隅々まで見渡せる偽りの世界には、形の上で恣意性をもぐりこませる余地がない。 そのためにいくらかお決まりのやり方で、空間があらかじめ広かったのだとしようとする。

机の上に逆さに立てた鉛筆がある方向に倒れはじめれば、机にあたるまでのその動きは、鉛筆の角度のようなひとつの変数の時間に関する発展として書かれるだろう。 運動方程式が規則となり、垂直に近い最初の角度が初期状態となる。 理屈の上では真逆さに置いた鉛筆は倒れない。 しかしそれは不安定であり、実際にはどんなに慎重に置いてみても、ためらいもみせずにいずれかの方向に倒れていく。 倒れはじめればもうその方向を変えることはない。 方向は恣意的に選ばれ、もはや変更できない決まりとなったかに見える。 ちょうどイヌという言葉が選択されたように。 このとき、対称性を持つ方程式とそれを収める広い空間を用意して記述され、自発的対称性の破れなどいうもっともらしい名前でよばれる。 恣意的に選択されたかのような方向は微弱な初期値の揺らぎに押し込められ、時計仕掛けの世界観は命脈を保つ。 だがこれはどこまで、あるいはどういう意味で本当なのだろうか。 新しい俗語が生まれたとき、新しい生物種が生まれたとき、その空間はすでにあらかじめ用意されていて、初期値に含まれていたことなのだろうか。 そのとき何か新しいものが生まれたのではないのだろうか。

それでも、根拠がないとみなすことが新たな別の議論をひらくかもしれない。 恣意的だと思えるものはどうやって存在しうるのかと問うことが意味を持つかもしれない。 3 つの塩基が 1 つのアミノ酸を指定する遺伝コードは、人為的に作られた CPU のオペコード表を思わせる。 端的に「コード」としか呼びようのないほどのできだ。 種々の CPU に別の機械語があるように、世界にたくさんの言語があるように、それは別のコードでもよかったはずだと思わせる。 しかし地球上の生命はすべてこの共通のコード表かそのヴァリエーションを用いている。 地球外生命がいれば、別のコードどころか RNA や DNA さえ用いていないだろうが、その例をぼくらはまだ知らない。 なぜこのようなものが自然に発生しうるのか。

しかし本当に新しく生まれたものをうまく記述できるようなやり方をぼくはよく知らない。 複雑系の研究者は「創発」という言葉を口にする。 機械仕掛けのコンピュータ・シミュレーションの中にその片鱗を見つけ出そうともがいている。 しかしまがい物であり決定論的である計算結果の中に新しいものを見るのはいったい誰なのか、それはどのような存在なのか、何をして新しいと思うのか、もどかしげにただよう霞の中につつまれている。 新しさについての何か明確な基準を求めてしまえば無いものねだりになってしまうだろうか。 そもそも作り上げられた上から下への演繹的な体系の中で新しさって何かでありうるのだろうか。 そうでない体系って何だろう。

[1] P. Kay, L. Maffi, American Anthropologist 101: 743–760 (1999) DOI: 10.1525/aa.1999.101.4.743
[2] D.T. Lindsey, A.M. Brown, Psychological Science 13: 506–512 (2002)

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